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バイクパッキングのパッキングには良し悪しがあると思う

先日Twitterでパッキングに対する考え方を書いたところ、うまく伝えきれないところがあったので、ちゃんと文章にしてみようと思います。

後から違うことを言っていたり、過去の発言と辻褄が合わないこともあるかもしれないけど。 今の時点での認識として大目に見てください。

趣旨


バイクパッキングのスタイルの話題になると、何となくみんな違ってみんな良い的な世界観があり、絶対的な良し悪しについて言及しない傾向を感じています。 これに対しほぼ反対の意見になりますが、特にパッキングに関して言うと自分はセオリーといえる範囲はある程度きめることができると考えています。 確かにパッキングというものは絶対的な評価をするのは難しいという性質があるのは分かります。 とは言え、もうちょっと白黒つけてもいいんじゃないか?というのが思うところです。

今の自分のパッキングが良いパッキングか?と言えば、今の時点で全てにおいて最高の選択をとれている訳ではないと思っています。 なので、こんなことを言うのはちょっと差し出がましいかもしれませんね。 でも他の人のパッキングや過去の自分のパッキングを見ると、今の自分のほうが攻めれてるなと思うところはたくさんありますし、逆にこの人はすごいなというパッキングもあります。 あまり客観的じゃなくて恐縮ですが、そういう個人的な経験がパッキングの絶対的な良し悪しはあるという主張の根拠になってます。

逆にそういう表立った評価を避けることは、バイクパッキングの文化に対しては、むしろ有害な部分もあると考えています。 やはりパッキングには甲乙つけるべきでないような文化的側面もある一方、基本的にはテクニックなので、オープンソースソフトウェアのように、みんなで叩き、舐め回し、良い部分と悪い部分を洗い出していくことが、全体の進歩につながると考えています。 ソフトウェアのバグや遅い実装を個性として認めていたら、今頃は我々は20世紀とあまり変わらない生活をしていたでしょう。

ロードバイクMTBのようなメジャーなジャンルは、良し・悪しに言及することに対して寛容ですよね。 その結果として、性能が高い自転車とは何かというのは、だいたい意見が収束しています。 何が良いかはタイミングによって変わりますが、ある瞬間での結論はトレンドという形で決着します。 「今はのところ○○が正しいとされている」と言ったところで、「決めつけるなんていちいち偏狭なやつ」だとは言われないでしょう。

こういったジャンルでは逆にセオリーからかけ離れている場合に、ツッコミを入れることも許されていると思います。 明らかに間違っていること、または正しさが完全に証明されてないことを主張している人がいれば、「技術やトレンドの変化で今後そうなる可能性はあるけど、今のところは多くの人にはそう考えられていません」と言われるでしょう。 そしてそれは人格否定や悪口とは考えられず、議論の一貫として許容されるはずです。

パッキングに話を戻すと、こっちにも同じような議論があってもよいと思っています。 つまり性能が高い自転車の構造や、効率的なトレーニングの方法論を語るのと同じように、パッキングの是非を語ってもぜんぜん悪いことじゃないし、むしろそういうことが全体のレベルを上げることになるんじゃないでしょうか。

本当に本当のことを言うと、パッキングの方法論を客観的に評価をする方法は限られているので、良いパッキングとは何かという見解について意見の対立が発生した場合、最終的には水掛け論になることが予想されます。 でも、紅茶とミルクどちらを先にカップに注いだほうが美味しいミルクティーができるか、スペースとタブはどちらがインデントとして優れているか、きのこの山たけのこの里はどちらがより文明的なお菓子か、などのように決着はつかなくてもよいのではないでしょうか。 お互いへのリスペクトが伴っている範囲で闘い、その過程でみんなが気づきを得られればそれでよいと思います。

パッキング方法をいちいち真面目に考える必要はあるのか?


反対意見というほどではありませんが、そもそもパッキングを良くするという努力そのものに対して必要ないと考える意見もあるようです。 普通にツーリングする分は正しい感想です。 特に日本のように安全で自販機やコンビニ、セルラー回線のようなインフラが整った場所では、この主張は根強いでしょう。

しかし自分たちがやっているのは、パッキングを最適化してお互いにフィードバックしながら、みんなでベストプラクティスを探すという遊びなのです。 改善できる場所を見つけて、それを潰していくこと自体に楽しみを感じています。

ちょっと分かりやすいかもしれない例え話を出すと、お金と時間を溶かして自転車競技に打ち込みリザルトを追求している人に対して、「大人が自転車なんか早く漕ぐ必要あるのか?」という人はあまりいないと思います。 自分たちにとってのパッキングの改善は、自転車競技者のリザルトやスピードを追求する行為に相当します。 なので不要論をぶつけられることがあれば、実際パッキングの改善は不要な行為なので、特に反論はできないけど「たしかに!」と我に返りパッキングの改善をやめることはありえません。

結局のところ、自転車趣味は潜在的に必要がない、という一般化ができます。 自転車趣味である以上、すべてのジャンルにおいて似たような不要論が言えてしまうでしょう。

少し話がそれるかもしれませんが、それはそれとして最適化する必要はないという割り切ったマインドセットも大事だと思います。 初心者が始める時にパッキングの良し悪しを考えた結果、頭でっかちになって動けなくなるのは、完全に最悪の状態です。 ここで語るまでもないことですが、物が揃ってなければ適当でいいからなんかやってみる、というのは大切な姿勢です。

数年前なので流石に考えが変わっているところもあると思いますが、何でも良いからやってみたほうがいいという意味では、まずはパニアバッグがいいと思う、ということをまとめた怪文書があるので、こちらも読んでみてください。 www.otakuhouse.org

f:id:otakuhouse:20210621234131p:plain ▲友人のマンタのパッキング。このときはツーリングバイクも持ってないし、コンパクトなキャンプ道具も持ってないし、変速機もなかった。普通の大人なら「道具がないから行かない」なんて言っちゃいそうな装備だけど、彼は普通にグラベル・シングルトラックありの山岳ルートに着いてきていた。

パッキングの良し悪しを決めるのは自由を阻害するか?


パッキングは自由であるべきだ、という見解に基づき、何が良いか悪いかということを考えること自体好ましくないとする意見もあるようでした。

そのとおりではあるんですが、パッキングに対して絶対的な良し悪しを持ち込むことで、自転車は不自由になるのでしょうか。 ここの因果関係は全く無いと思います。 速いロードバイクや、レースでの立ち回りや、トレーニングの方法論を考えている人達の存在によって、のんびり自転車に乗りたいという人達がスポイルされることはないと思いますが、それと同じ話です。 自由であるべきだとすれば、効率的なパッキングという選択を、取るか取らないかに自由があるべきだと思います。

たしかに良いパッキングの議論をすることに何かリスクがあるとしたら、こういうところがデメリットになる可能性があるかもしれません。 が、それはここ書いたような理由をもって、自分としては否定したいところです。